Journeys|旅の入口

長編、短編、音楽、そして旅先から。好きな入口からどうぞ。

Lo stesso mare|同じ海

舞台はシチリア。

タオルミーナとシラクーザ。

二人の女がいる。
二人は出会わない。

一人は、短い結婚のあと、まだ見ぬ未来を失った若い女。
もう一人は、長い結婚生活を終え、積み重ねた年月を抱える女。

正反対の人生を歩いてきた二人の目の前にあるのは、
穏やかで、美しい、同じ海だった。

タオルミーナの女

彼女はサン・ドメニコ・パレスに泊まっていた。

かつて修道院だった建物。
厚い壁。
静かな回廊。
石の中庭。

そこにいると、自分まで少しだけ別の時代へ迷い込んだような気がした。

けれど、鏡の前に立てば現実に戻る。

短い結婚が終わった。

長かったわけではない。

それでも、失ったものは軽くなかった。

これから住むはずだった家。
これから行くはずだった場所。
これから交わすはずだった言葉。

まだ名前さえついていなかった未来。

彼女はホテルを出た。

ヴィットリオ・エマヌエーレ通りを、ギリシア劇場の方へ歩く。

途中、一軒のブティックの前で足を止めた。

ショーウインドウには、鮮やかなドレスが並んでいた。

これまでの自分なら、きっと選ばなかったものばかりだった。

少し派手すぎる。
少し大胆すぎる。
少し、自分らしくない。

だから、彼女は店に入った。

店員が何着か持ってきた。

彼女は鏡の前で首を振った。

「もっと派手なのは?」

店員が少し笑った。

そして、奥から一着持ってきた。

背中が腰の下まで深く開いたドレス。

振り向けば、誰もが息を呑むような一着だった。

次に彼女は、いちばん細く、いちばん高いピンヒールを選んだ。

最後に、少し濃すぎるくらいの赤い口紅。

誰かを誘うためではない。

誰かに見せるためでもない。

これまでの自分に、さよならをするためだった。

通りへ戻ると、人々が彼女を見た。

男たちは目で追った。

女たちも、少し長く見た。

誰も彼女のことを知らない。

それでも、ドレスと口紅とピンヒールだけで、 彼女がどんな女なのかを勝手に決めていく。

自由な女。
男を振り回す女。
何かを捨ててきた女。

そのどれも、少しずつ当たっていて、
少しずつ間違っていた。

彼女は視線に気づいていた。

でも、振り返らなかった。

「みんな私を見てる」

「でも、いいのよ」

「見たければ、見ればいいのよ」

四月九日広場まで来たところで、彼女は足を止めた。

眼下に海が広がっている。

その先に、イゾラ・ベッラ。

夕方の光を残した海の中に、小さな島が浮かんでいた。

海から風が上がってくる。

ドレスの裾が揺れる。

彼女は、別れた男に心の中で言った。

「忘れていいのよ」

「私のことも」

「私たちが思い描いていた未来のことも」

「今日から私は、別の女になるの」

そう言い切ったあと、少しだけ黙った。

本当は、まだ全部を手放せるわけではない。

戻りたいわけではない。

ただ、あったはずの未来を、まだ完全には忘れられない。

「でも……今夜くらいは、まだ忘れないで」

彼女はまた歩き始めた。

ギリシア劇場の方へ。

何千年も前から、誰かが愛し、別れ、泣き、歌ってきた場所へ。

シラクーザの女

シラクーザでは、年上の女がオルティージャを歩いていた。

彼女はこの街が好きだった。

タオルミーナほど華やかではない。

けれど、その分だけ街が近かった。

細い路地。
古い石壁。
小さな広場。
洗濯物の影。

角を曲がるたびに、また別の道が現れる。

オルティージャは、少し迷うくらいがちょうどよかった。

地図を見ないで歩く。

行き止まりなら戻ればいい。

海が見えたら、その方向へ行けばいい。

長い結婚生活では、迷わないことばかり覚えた。

次に何をするか。
何時に帰るか。
誰に合わせるか。

だから今は、少しくらい道を間違える方が心地よかった。

彼女は、オルティージャの市場も好きだった。

魚。
野菜。
果物。
氷。
声。

朝の市場には、街がそのまま詰まっていた。

とくに、いつも同じ魚屋に立つ大将との会話が好きだった。

「よお、姐さん。今日はいいマグロあるよ」

「昨日もそう言ってたじゃない」

「わかってるだろ、うちの魚が抜群なのは」

「それを自分で言う?」

「誰が言うんだよ。魚は喋らないだろ」

彼女は笑った。

こういう笑い方を、長いあいだ忘れていた気がした。

大将はマグロを見せる。

そして包丁ではなく、スプーンを手に取った。

骨の際に残った身を、ゆっくりこそげ取っていく。

見栄えのいい切り身ではない。

観光客が選ぶところでもない。

けれど、そこが抜群にうまい。

大将と彼女だけが知っている、小さな秘密だった。

「姐さんは、こっちだろ」

「そう。そこが一番おいしいのよね」

「他の客には言うなよ」

「言わないわよ。これは私たちの秘密でしょう」

彼女は、こそげ取られていく身を見ながら、ふと思い出した。

「あの人は、マグロのカルパッチョが好きだったわ」

大将は手を止めない。

「ケイパーをたっぷり。レモンも多めに」

「いつも同じだったわ」

朝のコーヒー。

食卓。

旅行。

言い争い。

沈黙。

何でもない日。

何十年という結婚生活は、そういうものの積み重ねだった。

「持ってくか?」

彼女はマグロを見た。

返事が少し遅れた。

「……でも、もう食べさせる人がいないのよ」

大将は一瞬だけ黙った。

それでも、スプーンを置かなかった。

「じゃあ、姐さんが食えばいいだろ」

「いい魚は、人に食わせるためだけにあるんじゃない」

彼女は大将を見た。

そして笑った。

自分のために魚を買う。

自分のためにドレスを着る。

自分のために口紅を引く。

そんな簡単なことを、ずいぶん長いあいだ忘れていた。

忘れていいのよ

二人は出会わない。

タオルミーナの女は、シラクーザの女を知らない。

シラクーザの女も、タオルミーナの女を知らない。

それでも、二人は別れた男に向かって、 同じような言葉を心の中で繰り返していた。

忘れていいのよ。

同じ海

タオルミーナでは、若い女が四月九日広場から海を見ていた。

イゾラ・ベッラの向こうに、夜が降りてくる。

シラクーザでは、年上の女がドゥオーモ広場をあとにした。

アレトゥーザの泉の近くを抜け、そのままルンゴマーレへ向かう。

夕日が海の上に残っていた。

一人で歩くには、少し美しすぎる景色だった。

でも、今夜はそれでよかった。

若い女のドレスの裾を、海風が揺らした。

年上の女の髪を、海風がほどいた。

同じ風ではない。

それでも、その風には同じ塩が混じっていた。

イオニア海。

一人は、まだ知らない自分を探している。

もう一人は、長い年月の中で忘れていた自分を取り戻そうとしている。

向いている方向は逆だった。

それでも、二人が探しているものは同じだった。

誰かの妻ではない自分。

誰かに愛された自分でもない。

誰かに捨てられた自分でもない。

ただ、自分。

若い女は思う。

「忘れていいのよ」

「でも、海まで忘れなくていい」

年上の女も思う。

「もう全部覚えている必要なんてないでしょう」

「でも、海まで忘れることはないわ」

二人の言葉は、互いには届かない。

別れた男にも、届かないかもしれない。

それでいい。

言葉は、届くためだけにあるのではない。

言わなければ、自分の中に残り続ける言葉もある。

二人は、それを海へ放つ。

そして最後に、 別々だった二つの声が、ほんの少しだけ同じ旋律へ入っていく。

大きくはない。

叫びもしない。

ただ、静かなユニゾン。

Lo stesso mare.

同じ海。

同じ言葉。
違う声。
違う人生。

もう一つの Dimenticami pure。

どちらがタオルミーナの女で、どちらがシラクーザの女なのか。

それは、聴く人に委ねてもいいのかもしれない。

コメント

人気の投稿