旅のはじまりは、ベイルートの声だった
地中海をめぐるアラブの歌 I
旅は、一枚の古いレコードから始まりました。
それは、旅人が自宅の蔵を片づけていたときに見つけた一枚のLPでした。
紙のジャケットは色褪せ、角は擦り切れていました。表面には、これまで一度も見たことのない文字が並んでいました。
右から左へと流れ、曲がり、つながり、古びた紙の上で静かに踊っているような文字。
旅人には、一文字も読むことができませんでした。
誰の歌なのか。
何という曲なのか。
どこの国で作られたレコードなのか。
何も分からないまま、彼は盤面の埃を払い、レコードプレーヤーに載せました。
針を落とすと、微かなノイズが部屋に広がりました。
そして、その向こうから女の声が現れました。
彼がそれまで聴いたことのない発音。
悲しみを秘めながら、どこまでも遠くへ伸びていく旋律。
一人の人間に向けた恋歌とは思えない、大きな何かを抱き締めるような声。
言葉の意味は、一つも分かりませんでした。
けれど、何度か繰り返される音の中に、かろうじて聞き取れる言葉がありました。
ベイルート。
それが都市の名だと知るまでに、時間はかかりませんでした。
旅人は地図を開きました。
地中海の東岸。
レバノンという国の海辺に、ベイルートはありました。
彼は歌手の名も、曲名も調べませんでした。
ただ思ったのです。
このような音が生まれる場所へ、行ってみたい。
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| 蔵で見つけた、埃にまみれた一枚。読めない文字の中で、ただ一つ耳に残った街の名――ベイルート。 |
声だけを頼りに
旅人は、ほとんど何も知らないままベイルートへ向かいました。
歴史も、言葉も、街の事情も調べなかった。
蔵で聴いた一枚のレコードと、「ベイルート」という音だけを頼りに、飛行機へ乗ったのです。
しかし、彼を待っていたのは、歌の中で想像した美しい古都だけではありませんでした。
空港から市街へ向かう車の窓から、かつて美しかったことだけが分かる建物が見えました。
裂けた壁。
窓の失われた家。
傾きながら、それでも立ち続ける古い建物。
街は壊れながら、まだ生活をやめてはいませんでした。
洗濯物は風に揺れ、店は扉を開け、人々はコーヒーを飲んでいました。
旅人は坂を歩き、やがて地中海を望む古いカフェを見つけました。
奇跡的に破壊を免れた、小さなテラスのある店でした。
海は深い青色をしていました。
遠くから眺めれば、街には何も起きていないようにも見えました。
けれど振り返ると、カフェの背後には傷ついた建物が並び、その間に一本の大きな杉が立っていました。
長い年月を耐え抜いてきたはずの木は、海風の中で今にも倒れそうに傾いていました。
旅人がテラスの席へ座ると、女将が小さなカップを運んできました。
濃く、黒く、強い香りのするコーヒーでした。
女将は旅人に余計なことを尋ねませんでした。
注文を聞き、椅子を直し、風が強くなるとテラスの布を結び直す。
少し疲れた、無口な店主に見えました。
旅人は海を眺めながら、蔵で聴いた声のことを考えていました。
あの歌は、この青い海を歌っていたのだろうか。
それとも、背後で壊れていく街を歌っていたのだろうか。
夜になると、女将は歌う
夕方になると、客は少しずつ店を離れていきました。
女将はテーブルを片づけ、カフェの灯りを落としました。
旅人も帰ろうとしたとき、彼女は店の奥から古いマイクを持ち出しました。
伴奏者はいませんでした。
遠くから、ネイの息のような音が聞こえ、ウードが静かに一音を置きました。
そして女将は、海に向かって歌い始めました。
昼間の低く掠れた話し声とは違いました。
深い低音。
長く伸びる母音。
美しく整えられた、旅人には意味の分からない言葉。
しかし、その中に一度だけ、彼にも分かる音が現れました。
ベイルート。
その瞬間、旅人の中で、蔵のレコードが再び回り始めました。
古い盤面の向こうで聞いた声と、目の前で歌う女将の声。
声質は似ていませんでした。
女将の声には、海風と煙草と年月が混じっていました。
それでも、二つの声は同じ場所へ向かっていました。
一人の恋人ではなく、街そのものへ。
女将は、壊れた窓を歌いました。
朝に戻ってくるコーヒーの香りを歌いました。
去っていった人々の名を歌いました。
そして、倒れそうになりながら立ち続ける杉を歌いました。
彼女の歌は、街を救うための歌ではありませんでした。
失われた人々を戻すことも、崩れた建物を元に戻すこともできない。
それでも、街が完全に沈黙してしまわないように、彼女は毎晩歌うのです。
これがレバノンの歌
歌が終わると、カフェにはしばらく波の音だけが残りました。
旅人は、拍手をすることさえ忘れて女将を見つめていました。
彼女は古いマイクを元の場所へ戻し、何事もなかったようにカウンターの内側へ入りました。
そして、小さなカップにもう一杯コーヒーを注ぎ、彼の前に置きました。
「これがレバノンの歌。どうだった?」
旅人は、すぐには答えられませんでした。
「きっと、ベイルートという言葉しか分からなかったでしょう?」
女将は少し笑いました。
「はい。それだけは、聞き取れました」
「でも、それでいいの。私はいつも海を見ながら、この街のことを歌っているのよ」
旅人は、蔵で見つけた古いレコードのことを話しました。
ジャケットの文字が一つも読めなかったこと。
歌手の名前も、曲の題名も知らなかったこと。
それでも針を落とした瞬間、声と旋律に身体ごとつかまれたこと。
「何を歌っているのか、まったく分かりませんでした。でも、誰か一人に向かって歌っているのではないと思ったんです」
「どうして?」
「もっと大きなものに向かっているように聞こえました。人ではなくて、街そのものに」
女将は、カップを持つ手を止めました。
「それで、何も調べずにここまで来たの?」
「ベイルートという音だけを頼りに」
彼女は呆れたように旅人を見たあと、小さく笑いました。
「本当に困った坊やね」
「よく言われます」
「そうでしょうね」
女将はカウンターの下から紙を取り出し、二つの言葉を書きました。
فيروز
لبيروت
「上がフェイルーズ。歌手の名前よ」
旅人は、蔵の暗がりで何度も眺めたジャケットを思い出しました。
「フェイルーズ……」
「そして下が《Li Beirut》。『ベイルートへ』という意味」
彼は初めて、あのレコードに名前を与えられたような気がしました。
「あなたは歌の意味も、歌手の名前も知らなかった。でも、歌が向かっていた場所だけは分かったのね」
「声が、そう教えてくれたような気がします」
「声は時々、言葉より正直だから」
女将は海へ目を向けました。
「あなたがレコードから聞いたのは、昔のベイルート」
彼女は静かに続けました。
「私が今夜歌ったのは、まだ終わっていないベイルートよ」
いろいろなアラブの歌
旅人は、それから何日かカフェへ通いました。
昼は地中海を眺めながらコーヒーを飲み、夜になると女将の歌を聴きました。
同じベイルートを歌っているはずなのに、毎晩少しずつ言葉が違いました。
ある夜は、港に帰らなかった船のこと。
ある夜は、誰も住まなくなった家の窓のこと。
またある夜は、風に傾きながら、それでも倒れずにいる杉のこと。
旅人は、いつしかレバノン歌謡に夢中になっていました。
フェイルーズのレコードを探し、女将が教えてくれた歌手の名をノートに書き留めました。
アラビア語の文字はまだ読めませんでしたが、いくつかの音だけは、耳に残るようになりました。
ある夜、旅人は女将に言いました。
「レバノンの歌は、どれもこんなふうに美しいんですね」
女将は、空になったカップを片づけながら、ちらりと彼を見ました。
「レバノンの歌を少し聴いただけで、もうアラブの歌が分かったつもり?」
「そういうわけでは……」
「同じようなものだと思っていたでしょう?」
旅人は答えに詰まりました。
女将は笑いました。
「アラブには、たくさんの国があるの。海の向こうにも、砂漠の向こうにも。それぞれの土地に、それぞれの暮らしがあって、歌がある」
「でも、今夜の歌はアラビア語でしょう?」
「もちろん。けれど、私が歌ったのはフスハーに近い言葉。少し格好を整えたアラビア語ね」
「普段は違うんですか?」
「普段の私は、こんなに立派な言葉では話さないわ」
女将は、先ほどまで歌っていた歌姫とは別人のような、くだけた言葉で何かを言いました。
旅人には、一語も分かりませんでした。
「今のは?」
「私たちが普段話す言葉。アーンミーヤよ」
女将は続けました。
「国が変われば響きも変わる。エジプトの人はエジプトの言葉で笑い、シリアの人はシリアの言葉で怒る。もっと西へ行けば、同じアラビア語とは思えないかもしれない」
「歌も違うんですか?」
「もちろん。美しく言葉を並べる歌もあれば、恋に怒って叫ぶ歌もある。人生の苦さを、酒場で笑いながら歌う人もいる」
女将は、旅人の前に新しいコーヒーを置きました。
「また私の歌を聴きに来なさい」
旅人が顔を上げると、彼女は続けました。
「その前に、アラブにはいろんな国があって、いろんな人がいることを知った方がいいわ」
「どうやって?」
「旅をするのよ。あなた、それしかできないでしょう?」
「次はどこへ?」
女将は、少し意地の悪い笑みを浮かべました。
「オラン」
未知の街、オランへ
女将はカウンターの下から、古いカセットテープを取り出しました。
ラベルには、太いペンで一言だけ書かれていました。
ORAN
「これを持っていきなさい」
「誰の歌ですか?」
「知らない方が幸せ、っていうでしょう?」
旅人は思わず笑いました。
女将も笑いました。
「少しは覚えたようね」
旅人がオランへ向かう朝、海は静かでした。
カフェのテラスには、まだ客の姿はありません。
女将はいつものように椅子を並べ、テーブルを布で拭いていました。
「今日、出ます」
女将は手を止めませんでした。
「そう」
「オランへ行ってみます」
「私が行けと言ったものね」
女将は最後のテーブルを拭き終えると、ようやく旅人を見ました。
「カセットは持った?」
旅人は、鞄の外側のポケットを軽く叩きました。
「ここに」
「なくさないでね。もう同じものはないから」
彼女はいつもの小さなカップにコーヒーを注ぎました。
「旅立つ前に、一杯くらい飲めるでしょう」
旅人は、初めてこの店を訪れた日と同じ席に座りました。
目の前には地中海。
背後には傾いた杉。
壊れかけた街の屋根の向こうから、朝の光が差し始めていました。
「また戻ってきてもいいですか?」
女将は、意外そうに眉を上げました。
「もう帰ってくる話?」
「念のためです」
「本当に困った坊やね」
そう言いながらも、その表情はやわらかいものでした。
やがて旅人が立ち上がり、鞄を肩に掛けると、女将はテラスの端まで見送りに出ました。
「きっと、新しいことが見つかるわよ」
「新しい歌ですか?」
「歌だけではないわ」
女将は海の向こうを見ました。
「同じ言葉を話しているように見えても、土地が変われば、人の愛し方も、怒り方も、悲しみ方も変わる。その違いを、よく聞いてきなさい」
旅人は頷きました。
「そうしたらまた、私のところに戻ってきてね」
その言葉に、旅人は少し驚きました。
女将はすぐに付け加えました。
「もちろん、コーヒー代は払ってもらうけれど」
旅人は笑いました。
坂を下り始めてから、もう一度振り返りました。
女将はまだテラスに立っていました。
海風が彼女の服と、背後の杉の枝を揺らしていました。
旅人が手を上げると、女将も小さく手を振りました。
彼が角を曲がる直前、海から届いた風の中に、女将の声が混じりました。
歌ではありませんでした。
独り言のような、ごく小さなアーンミーヤでした。
ومع هيك... رايح عَ وهران؟
旅人には、その意味は分かりませんでした。
ただ、最後に聞こえた「ワフラーン」という音が、鞄の中のカセットに書かれた街の名なのだろうと思いました。
――それなのに、あなたはオランへ行くのね。
鞄の中には、一巻の古いカセット。
ラベルに書かれた、未知の街の名。
ORAN
旅人は地中海を、西へ向かい始めました。


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