Journeys|旅の入口

長編、短編、音楽、そして旅先から。好きな入口からどうぞ。

マルティニーク|三つの夜と、最後のビギン Part 3

第三章|最後のビギン

三日目の夜。

ダニエルは、もう迷うことなくあのバーへ向かった。

最初の夜は、偶然だった。

二日目も、最初は偶然だった。

けれど今夜は違う。

ジョセリーヌと会う約束をしている。

そして明日の朝、ダニエルはこの島を離れる。

それだけで、同じ路地も少し違って見えた。

扉を開ける。

店の中には、いつものようにビギンが流れていた。

ダニエルはカウンターに腰を下ろした。

約束の時間までは、まだ少しある。

バーテンダーにラムを頼み、グラスを傾ける。

時間になる。

けれど、ジョセリーヌはまだ来ない。

五分。

十分。

ダニエルは平気な顔をしてラムを飲んでいた。

それでも、扉が開くたびに目がそちらへ向いた。

十五分ほど経った頃。

聞き覚えのある声がした。

「やっぱりいるじゃない」

振り向く。

ジョセリーヌだった。

彼女は楽しそうに笑っている。

「来てくれると思ってた」

ダニエルも笑った。

「ちょっと遅刻ですよ。待ってたんですから」

「ごめんなさい」

そう言いながらも、ジョセリーヌはあまり悪びれていない。

「でも、待っててくれると思ってたもの」

「ずいぶん自信がありますね」

「三晩目だから」

ジョセリーヌはそう言って、ダニエルの隣に座った。

しばらく話したところで、彼女がふと思い出したように立ち上がった。

「あ、そうだ」

「なに?」

「ちょっと待っててね」

ダニエルが笑う。

「また待つんですか?」

「今度はそんなに待たせないわよ」

そう言って、ジョセリーヌは店の奥へ消えていった。

しばらくして、再び姿を現す。

ダニエルは思わず彼女を見た。

深いバーガンディのドレス。

昨日までとは違う、ずっと華やかな装いだった。

胸元は大胆に開き、身体のラインに沿った生地が、店の琥珀色の灯りを柔らかく受けている。

足元には細いヒール。

髪も、メイクも、いつも以上に丁寧に整えられていた。

「どう?」

ジョセリーヌが笑う。

ダニエルは少し間を置いた。

「ずいぶん気合いが入ってますね」

「せっかくの夜だもの」

それ以上の理由を、彼女は言わなかった。

ダニエルも聞かなかった。


二人はいつもの席に戻った。

三晩目になると、会話にも不思議な落ち着きがあった。

最初の夜のように、何を話そうかと考える必要はない。

二人とも、もう相手に聞きたいことがたくさんあった。

「今日、どこへ行ったの?」

ジョセリーヌが尋ねる。

ダニエルは、昼間歩いた街のことを話した。

市場。

港。

カフェ。

知らない路地。

ジョセリーヌは、ときどき短く相槌を打ちながら聞いていた。

「それで?」

「その先は?」

ダニエルが話すと、彼女はまた次の言葉を拾う。

話を遮らない。

けれど、聞き流してもいない。

ダニエルは気づけば、昨日よりずっとたくさん話していた。

ジョセリーヌが笑う。

「あなたって、何を聞いてもちゃんと答えるのね」

「聞かれたから答えてるだけですよ」

「普通はもう少し、適当にごまかすものよ」

「そうなんですか?」

「ほら。また真面目に答える」

ジョセリーヌが声を立てて笑った。

ダニエルもつられて笑う。

三晩目。

二人は、もう名前を知っただけの相手ではなかった。

互いに、もっと知りたい人になっていた。


しばらくして、ジョセリーヌがダニエルのグラスを見る。

「ねぇ、私が来る前に何飲んでたの?」

「昨日教えてもらったラムです」

「気に入ったの?」

ダニエルはグラスを見ながら少し笑った。

「あなたと一緒に飲んで話していたから、おいしく感じたのかなあ」

ジョセリーヌが少し目を細める。

「あら」

「相変わらず、101はむせますけど」

ジョセリーヌが声を立てて笑った。

「じゃあ、ラムじゃなくて私のおかげ?」

「たぶん、そういうことになりますね」

「そういうこと、真面目な顔で言うのね」

「本当のことですから」

「ほんと、あなたって面白いわ」

ジョセリーヌは少し考えるようにグラスを見つめた。

そして、何かを思いついたように顔を上げる。

「じゃあね、今夜はとっておきのものを教えてあげる」

「とっておき?」

「そう。でもその前に、チェイサーで口の中をきれいにしておいて」

「そんなにすごいものなんですか?」

「ちゃんと味わってほしいの」

ジョセリーヌはバーテンダーに声をかけた。

ダニエルは水をひと口飲む。

内心では、少し身構えていた。

きっと今夜は、もっと強烈なものが出てくる。

101プルーフより、さらに強いラム。

ジョセリーヌなら、平気な顔でそんなものを勧めてきそうな気がした。

ところが、バーテンダーが置いたグラスを見て、ダニエルは少し拍子抜けした。

透明だった。

「……ホワイト?」

「そう」

ジョセリーヌは楽しそうに笑う。

「もっと怖いものが出てくると思った?」

「正直、かなり」

「失礼ね」

彼女はグラスを指先で軽く示した。

「もっとプルーフの高いものも、たくさんあるのよ」

少し間を置いて、ダニエルを見る。

「でも、そんなのを飲ませたら、あなた、きっとつぶれちゃうでしょ」

「それは否定できませんね」

「だから考えたの」

ジョセリーヌは透明なラムを見つめた。

「私のとっておきは、このホワイトラム」

「強いものじゃなくて?」

「強ければいいってものじゃないわ」

「なるほど」

「ちゃんと味が分かるものを飲んでほしかったの」

ダニエルはグラスを鼻に近づけた。

さっきまで飲んでいたラムとは違う。

軽やかで、どこか青々しい香りがする。

一口。

今度は急がず、ゆっくり舌の上に乗せた。

「あ……」

ジョセリーヌがすぐに反応する。

「ね、香りも違うでしょ」

彼女も自分のグラスを持ち上げた。

「それから、舌の上に乗せたときの感覚も」

「うん」

「それを喉に通す感じも違うでしょ?」

ダニエルはもう一口飲んだ。

「確かに。軽いのに、ちゃんと残りますね」

ジョセリーヌの表情が少し嬉しそうになる。

「そうなの」

そして、少しだけ顔を近づけた。

「わかる?」

「少しずつ」

ジョセリーヌは笑った。

「あなた、だんだん分かってきたじゃない」

ダニエルはもう一度グラスを見た。

それがラムのことだけを言っているのか、少し分からなかった。


店の奥で、ヴァイオリンが新しい旋律を奏で始めた。

ダニエルはしばらく黙って聞いていた。

そして、ふと首を傾げる。

「あれ」

「なに?」

「この歌詞、昨日も聞いたよね」

ジョセリーヌが耳を傾ける。

「そうよ」

「でも、全然違う曲に聞こえる」

昨日より柔らかい。

ヴァイオリンの音が、少し長く残る。

リズムも急がず、どこか二人の間を漂うようだった。

ジョセリーヌが微笑む。

「そうでしょ」

そして、グラスを傾けながら言った。

「音は変化するの」

「同じ歌なのに?」

「同じ言葉でも、アレンジが変われば違って聞こえるでしょう?」

「確かに」

ジョセリーヌは少しだけ考えた。

「それに、聴く夜が違えば、同じ歌でも違って聞こえるものよ」

ダニエルはヴァイオリンを見た。

同じバー。

同じビギン。

そして、同じ二人。

何も変わっていないはずだった。

けれど、最初の夜とはまるで違って聞こえる。

ダニエルは隣にいるジョセリーヌを見た。

彼女は何も言わず、音楽を聴いていた。


やがて、ヴァイオリンがゆったりとした旋律へ変わる。

ジョセリーヌがグラスを置いた。

「踊る?」

ダニエルは少し驚いた。

「僕、ビギンなんて踊ったことないですよ」

「大丈夫。私に任せて」

ジョセリーヌは立ち上がり、ダニエルに手を差し出した。

「難しいことは考えないで。音を聴いて」

ダニエルはその手を取った。

「私についてくればいいの」

最初はぎこちなかった。

けれど、ジョセリーヌの動きに合わせているうちに、少しずつ身体がリズムを覚えていく。

「そう。それでいいの」

彼女が近くで囁く。

ビギンの柔らかなリズム。

ヴァイオリンの甘い旋律。

ホワイトラムの爽やかな香り。

そして、すぐそばにいるジョセリーヌ。

ダニエルは、この旅に出てから初めて、時間が止まってほしいと思った。


曲が終わる。

二人は席に戻った。

しばらくして、ジョセリーヌが何気なく尋ねる。

「ねえ、ダニエル」

「うん?」

「明日の船、何時なの?」

ダニエルは少し黙った。

「朝です」

ジョセリーヌの表情が、ほんの一瞬だけ止まった。

「そう……」

二人とも、すぐには次の言葉が出なかった。

最初から分かっていた。

ダニエルは旅人だった。

マルティニークは旅の途中だった。

けれど、その事実を口にすると、急に残された時間が短くなったように感じた。

「次は?」

「セントルシアへ。その先も南へ旅を続けるつもりです」

「まだ旅は続くのね」

「ええ。いずれはトリニダードまで」

ジョセリーヌは小さく頷いた。

「それがあなたの旅だものね」

ダニエルは彼女を見る。

「もし、もう少しここにいたら?」

ジョセリーヌは少し困ったように笑った。

「そんなこと言わないの」

「でも……」

「ダニエル」

彼女は優しく遮った。

「あなた、この旅をずっとしたかったんでしょう?」

「そうだけど」

「だったら、行かなきゃ」

「ジョセリーヌは、それでいいの?」

彼女はしばらく答えなかった。

そして、いつものように少し笑った。

「いいわけないでしょう」

ダニエルは何も言えなくなった。

ジョセリーヌは続けた。

「でも、あなたがこの島に来る前から始めた旅を、私のために途中でやめてほしくないの」

少しだけ沈黙があった。

ジョセリーヌがグラスを持ち上げる。

「だから、今夜は乾杯しましょう」

「何に?」

ジョセリーヌは少し考えた。

そして笑った。

「偶然に」

ダニエルもグラスを持ち上げる。

「それなら、偶然に」

グラスが小さな音を立てた。

最初の夜、二人が出会ったのは偶然だった。

次の夜、再会したのも偶然だった。

けれど、そのあとからはもう違う。

二人は、会いたくて会っていた。

それ以上、別れの話はしなかった。

話して、笑って、ラムを飲んだ。

いつもの二人に戻った。


やがて楽団が、ゆっくりとしたビギンを奏で始めた。

歌詞は、この数夜で何度も耳にしたものだった。

けれど、今夜のアレンジはまた違っていた。

音数は少なく、ヴァイオリンの余韻が長い。

ダニエルは、さっきジョセリーヌが言った言葉を思い出した。

音は変化するの。

ジョセリーヌが立ち上がる。

「もう一度、踊りましょう」

ダニエルも立った。

今度はもう、彼女に細かく教えてもらう必要はなかった。

二人は音楽に合わせて、ゆっくりと踊った。

最初よりも自然に。

言葉もいらなかった。

誰も急がない。

何も約束しない。

ただ、今ここにいる時間だけを大切にした。

曲が終わる。

ジョセリーヌはダニエルの胸に少しだけ顔を寄せた。

「この曲、覚えておいてね」

「忘れられないと思う」

「ラムの味も?」

「もちろん」

「最初にむせたことも?」

ダニエルは笑った。

「それは忘れたいな」

「だめよ。それも含めてマルティニークなんだから」

ジョセリーヌも笑った。

それが、二人の最後の夜だった。


翌朝。

港。

ダニエルが乗るのは、セントルシアへ向かう船だった。

そこから先も、旅はさらに南へ続く。

最終的には、トリニダードのポート・オブ・スペインを目指している。

けれど今は、まだその先のことを考える気にはなれなかった。

ジョセリーヌは来ないかもしれない。

そう思っていた。

けれど乗船する少し前、岸壁の向こうに見覚えのある姿があった。

ジョセリーヌだった。

ダニエルは、一瞬だけ足を止めた。

昨夜の彼女とは、まるで違って見えた。

バーガンディのドレスもない。

細いヒールもない。

薄いサマードレスを一枚だけ、さらりと身につけている。

足元はサンダル。

ほとんど化粧もしていなかった。

髪も、きれいに整えられてはいない。

起きて、そのまま急いで出てきたのだろう。

朝の海風が、少し乱れた髪を揺らしていた。

ダニエルは、その姿をしばらく見つめていた。

きっと、慌てて出てきたんだろう。

でも、見送りに来てくれた。

夜なら、きっとラムの話になった。

どのボトルがいいとか、どう飲めばいいとか、ジョセリーヌはいつもの調子で笑いながら教えてくれただろう。

でも、今は朝だった。

ビギンもない。

ラムもない。

ドレスも、ピンヒールもない。

そこにいるのは、この島で暮らしている、ひとりのジョセリーヌだった。

夜の彼女は、この島の夜に似合っていた。

けれど朝の彼女は、この島そのもののように見えた。

三晩一緒に過ごしたどの夜よりも、ダニエルには今の彼女が近く感じられた。

ダニエルは彼女のところへ歩いていった。

「来てくれたんだ」

「せっかくラムをいろいろ教えてあげたのに、黙って帰られたら困るでしょう」

いつものジョセリーヌだった。

でも笑顔は、夜のバーで見せていたものより少し静かだった。

彼女は船をちらりと見た。

「やっぱり行くのね」

「ええ」

ジョセリーヌは少し笑った。

「楽しかったわ。あのバーでのこと」

「僕もです」

「いろんなこと話したわよね」

彼女は朝の港を眺めながら続けた。

「最初は、お互い名前も知らなかったのに」

ダニエルは笑った。

「それが、毎晩一緒に飲むことになるとは思いませんでした」

「しかも、あなたは毎晩ラムに苦戦してた」

「そこは忘れてください」

ジョセリーヌが笑う。

「だめ。それも含めて覚えておくわ」

少しだけ間があった。

「でも、本当に楽しかった」

今度は、ジョセリーヌの声が少しだけ小さかった。

「僕もです」

それ以上、二人とも何も言わなかった。

互いに相手のことを思っていた。

でも、その気持ちを未来への約束に変える必要はなかった。

ジョセリーヌがいつもの調子に戻る。

「さあ、もう行かなきゃ。船に置いていかれるわよ」

「ジョセリーヌ」

「なに?」

「ありがとう」

「だから、何度も言わないの」

彼女は笑った。

「旅人なんでしょう? ちゃんと次の島へ行きなさい」

汽笛が鳴る。

もう時間だった。

「行ってらっしゃい、ダニエル」

「さよなら、じゃないんだ」

「さよならは嫌いなの」

ダニエルは少し笑った。

「じゃあ、行ってきます」

「Bonne route」

二人は短く抱きしめ合った。

長くはなかった。

けれど、それで十分だった。

ダニエルは船へ向かった。

タラップを上り、振り返る。

ジョセリーヌはまだそこにいた。

ダニエルが手を振る。

ジョセリーヌも、小さく手を振り返した。

やがて船が岸壁を離れる。

フォール・ド・フランスの街が、少しずつ遠ざかっていく。

ジョセリーヌは、船が遠くなるのを静かに見ていた。

口にはしなかった。

でも、心のどこかでは思っていた。

またいつか。

もし、あの旅人がこの島へ戻ってくることがあったなら。

そのときは、またあのバーで一緒にラムを飲めばいい。

それだけだった。

約束ではない。

ただ、そんな日があってもいいと思った。


船の上で、ダニエルには昨夜のビギンが聞こえるような気がした。

もちろん、そんなはずはない。

それでも耳の奥には、ヴァイオリンの優しい旋律が残っている。

101プルーフのラム。

爽やかなホワイトラム。

ジョセリーヌの笑い声。

ピンヒールの小さな音。

そして最後に見た、朝のジョセリーヌ。

そのすべてが、もうマルティニークの記憶になっていた。

次の港は、セントルシア。

その先には、まだいくつもの島と海がある。

そしていつか、ポート・オブ・スペインへ。

旅はまだ続く。

二人は、何かを約束したわけではない。

互いの未来を変えようとしたわけでもない。

ただ、人生の途中で偶然出会い、数夜だけ同じ時間を過ごした。

話して、笑って、ラムを飲んで、ビギンを聴いた。

それだけだった。

でも二人にとって、その数夜はきっと長く残る。

楽しい夜をありがとう。

そして、またいつか。

フォール・ド・フランスはもう、ダニエルにとって地図の上のひとつの港ではなかった。


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