地中海をめぐるアラブの歌 II Part 2-1 | 青い椅子の男
夜になっても、オランの熱は消えていなかった。
昼間の魚市場とは違う。
魚と氷と海水の匂いはもうない。
代わりに、煙草と酒と、少し湿った夜気が混じっていた。
通りを歩く旅人の耳に、どこからか女の歌声が聞こえた。
低い声だった。
若くはない。
少し掠れている。
けれど、その掠れ方が妙に耳に残った。
旅人は立ち止まった。
狭い路地の先。
古い扉が半分開いている。
中から手拍子が聞こえた。
旅人は少し迷った。
そして、入った。
ベイルートでもそうだった。
知らない街で、知らない音が聞こえる。
気になる。
だから入る。
いつも、それだけだった。
夜の店
店の中は、外から想像したより広かった。
いや。
広いというより、人が多かった。
壁際までテーブルが並び、グラスを持った客たちが肩を寄せ合っている。
誰かが笑う。
誰かが声を上げる。
誰かが手を叩く。
奥には小さなステージがあった。
一人の女が立っている。
年齢は五十代くらいだろうか。
派手な衣装ではない。
濃い化粧もしていない。
ただ、声だけが強かった。
低く。
乾いていて。
そして、どこか深い。
.png)
旅人には歌詞の意味はほとんど分からなかった。
けれど、何度か聞き覚えのある言葉が出てきた。
深い。
底。
そこにあるもの。
旅人は昼間の魚市場を思い出した。
あの女が海を指した。
若者が身を乗り出した。
そして最後には魚箱を持たされていた。
旅人は少し笑った。
昼間の「深い話」は、市場を笑わせた。
今夜の「深いもの」は、誰も笑わせなかった。
同じ街だった。
でも、同じ言葉ではないように聞こえた。
女が歌い続ける。
そのとき、旅人の視線が店の隅で止まった。
青い椅子
最初に気になったのは、男ではなかった。
椅子だった。
店の家具はどれも古かった。
黒ずんだ木。
擦れた背もたれ。
色の抜けた座面。
その中に、一脚だけ鮮やかな青い椅子があった。
この店には、あまりにも不似合いだった。
地中海の南側でよく見るような、濃い青。
チュニジアンブルーに近い色。
そして、その椅子に男が座っていた。
白髪交じり。
六十を少し過ぎたくらいだろうか。
目の前には小さなグラスが一つ。
周囲の客は歌に合わせて手を叩いている。
男は叩かない。
誰かがステージへ声を飛ばす。
男は黙っている。
グラスを少し口へ運ぶ。
置く。
そしてまた、女を見る。
.png)
旅人はしばらく男を眺めた。
どうにも気になる。
椅子も。
男も。
旅人は、覚えたばかりのアラビア語を頭の中で並べた。
通じるかどうかは分からない。
それでも近づいた。
男が旅人を見る。
旅人は青い椅子を指した。
「……きれいな青ですね」
男は一度、椅子を見た。
そして旅人を見る。
「そうか」
通じた。
旅人は少し安心した。
「この店に、一つだけ?」
「一つだけだ」
「あなたの椅子?」
男は少し間を置いた。
「違う」
旅人は笑った。
「でも、あなたが座ってる」
男は初めて、ほんの少し口元を緩めた。
「そうだな」
歌が続いていた。
旅人は椅子のそばに立ったまま、もう一度尋ねた。
「昔からあるんですか」
「古い」
「どこから来たんです?」
男は答えなかった。
ステージへ視線を戻した。
女が歌っている。
男はもう旅人を見ない。
旅人は少し困った。
追い払われたわけではない。
ただ。
会話が終わったらしい。
旅人は近くの空いた椅子へ座った。
しばらくして気づいた。
この男は、歌が始まると喋らない。
本当に喋らない。
酒にもほとんど手をつけない。
ただ聴いている。
女の声が上がる。
男の目が少し細くなる。
声が沈む。
男も動かない。
旅人には、その静けさの方が店の熱気より気になった。
深いもの
歌が終わった。
大きな拍手が起きた。
旅人も手を叩いた。
男は拍手をしなかった。
ただグラスを持ち上げた。
一口飲んだ。
旅人は横から男を見た。
「好きなんですか」
「何が」
「歌」
「嫌いなら来ない」
もっともだった。
旅人は笑った。
男は笑わない。
「さっきの歌、何というんです?」
「الحوايج العميقة」
「深いもの?」
男が頷いた。
旅人はまた昼間の魚市場を思い出して笑った。
男が見た。
「何がおかしい」
「昼間も、深い話を聞いたんです」
「どこで」
「魚市場」
男は少し考えた。
「それは、たぶん別の深さだ」
旅人は吹き出した。
今度は男も少し笑った。
ORAN
次の曲まで少し時間があった。
旅人は鞄を開いた。
財布を探す。
そのとき、古いカセットが少し外へ滑った。
透明なケース。
細かな傷。
白いラベル。
太いペンで一語だけ。
ORAN
男の目が止まった。
旅人は気づかず、財布を取り出した。
鞄を閉じようとした。
「待て」
旅人の手が止まる。
男がカセットを見ていた。
「それを、見せてくれ」
旅人はカセットを取り出した。
「これ?」
男は手を伸ばさなかった。
ただ、じっと見ている。
長い。
妙に長い。
旅人はカセットを裏返した。
「古いものです」
男は答えない。
「オランと書いてあります」
「分かっている」
そして男が言った。
「これは……誰から受け取った?」
.png)
.png)
コメント
コメントを投稿