オランは、笑っていた|Part 1
旅人がオランに着いたとき、街はすでに暑かった。
地中海から吹く風には塩気があったが、それだけではない。
油の匂い。
埃の匂い。
焼けた石の匂い。
どこかで焼かれている肉と香辛料の匂い。
そして、そのすべてを押しのけるように、人々の声が飛び交っていた。
旅人は、ベイルートの女将から渡された古いカセットを、鞄の奥にしまっていた。
透明なケースには細かな傷がつき、ラベルには太いペンで、ただ一語だけが書かれている。
ORAN
なぜ自分がここへ来たのか。
旅人自身にも、まだよく分かっていなかった。
女将は、理由を説明しなかった。
「オランへ行ってみて」
それだけだった。
そして別れ際に、もう一つだけ言った。
「土地が変われば、言葉も変わるのよ」
旅人は、それを発音や単語の違いのことだと思っていた。
けれど、オランの通りを歩き始めて間もなく、それだけではないような気がしてきた。
旅人が初めて足を踏み入れたオランは、声と熱気に満ちていた。
魚市場
翌朝、旅人は港の方へ歩いた。
海へ近づくほど、人の声が大きくなっていく。
やがて、魚市場へ出た。
港に近い魚市場では、朝からいくつもの声が重なっていた。
氷の上に並べられた魚。
水に濡れた床。
積み上げられた木箱。
頭上を旋回するカモメ。
男たちは魚を運び、女たちは客を呼び止め、誰かが値段を叫び、別の誰かがその声にさらに大きな声を重ねていた。
旅人には、そのほとんどが聞き取れなかった。
アラビア語であることは分かる。
けれど、ベイルートで耳にしていた言葉とは、まるで違って聞こえた。
短い。
速い。
語尾が消えたかと思えば、次の言葉がすぐに飛んでくる。
一人が話し終えるまで、誰も待たない。
むしろ、相手の言葉の途中へ自分の言葉を投げ込んでいるようだった。
旅人は何度も振り返った。
怒鳴り合っているように聞こえるのに、次の瞬間には笑っている。
笑ったと思えば、また誰かが大声を出す。
どうにも調子がつかめなかった。
そんな中で、ひときわ低い声が聞こえた。
魚屋のおばちゃん
女は、四十代の終わりか、五十代の初めくらいに見えた。
太い腕で魚を持ち上げ、氷の上へ並べていく。
海風と日差しにさらされてきた肌。
額には布を巻き、暑さのせいか、胸元は少し大きく開いていた。
けれど本人は、そんなことを気にしている様子もない。
低く少し枯れた声で客を呼びながら、休むことなく手を動かしていた。
旅人がしばらく眺めていると、一人の若者がやってきた。
派手なシャツ。
細い身体。
少し長めの髪。
歩き方だけは、やけに大きい。
市場へ買い物に来たようには見えなかった。
若者は女の店先まで来ると、何か言った。
女は魚から目を上げなかった。
短く何か返した。
近くにいた男たちが笑った。
若者がまた言った。
今度は少し大きな身振りをつけた。
女が顔を上げた。
若者の目を見て、何か言った。
市場のあちこちから笑い声が起こった。
旅人には言葉の意味は分からなかった。
けれど、ひとつだけ分かった。
どうやら若者は、何か余計なことを言ったらしい。
そして女は、それよりずっと強い言葉を返した。
また始まった
若者は引き下がらなかった。
女の胸元を指すような仕草をし、何か言った。
旅人は思わず目を逸らしかけた。
けれど女は怒らなかった。
むしろ、少しだけ口元を緩めた。
そして今度は、自分の胸元ではなく若者の目を指した。
何かを言う。
また笑いが起きた。
若者が慌てて何か言い返す。
女が短く返す。
さらに大きな笑いが起こる。
旅人は、近くにいた老人の顔を見た。
老人は魚を選びながら笑っていた。
隣の店の男も笑っている。
木箱を運んでいた少年まで、立ち止まって二人を見ていた。
誰も止めようとはしない。
どうやら、これは騒ぎではないらしい。
それどころか、皆、この続きを待っている。
旅人には喧嘩に見えた。市場の人々には、いつもの朝だった。
若者が胸を張った。
今度は自分を指し、続いて海の方を指した。
何やら長くしゃべっている。
女は魚を並べながら聞いていた。
そして、ようやく手を止めた。
若者を上から下まで眺める。
そのあと、ゆっくり何かを言った。
市場が沸いた。
若者だけが、笑っていなかった。
いや。
よく見ると、本人も少し笑っていた。
負けたことが悔しいというより、次に何を返すか考えている顔だった。
旅人はそこで初めて気づいた。
二人は喧嘩をしているのではない。
遊んでいるのだ。
若者は言い負かされるたびに、また新しい言葉を持ち出す。
女も、それを待っている。
追い払おうとはしない。
魚を並べながら、次に何を言ってくるのかを楽しんでいる。
おそらく今日だけではない。
昨日も。
その前の日も。
こんなことを繰り返しているのだろう。
深い話
そのうち、女の様子が少し変わった。
声を低くした。
若者が顔を近づける。
女は海を指した。
それから、海の底を示すように手を下へ向けた。
何かを言う。
周囲から指笛が飛んだ。
若者の顔が変わった。
さっきまでの強がった表情ではない。
本当に興味を持ったらしい。
女がもう一度、低い声で何か言った。
若者が一歩近づく。
女が手招きする。
もう一歩。
市場の人々が、笑いをこらえながら見ている。
旅人も、何が起こるのか分からないまま見ていた。
若者が女のすぐそばまで来た。
次の瞬間。
女は足元に置かれていた魚箱を指した。
そして、ひときわ大きな声で何か叫んだ。
市場中が爆笑した。
若者はしばらく魚箱を見つめていた。
女を見る。
もう一度、魚箱を見る。
何か文句を言う。
女が一言返す。
また笑いが起きた。
結局、若者は箱を持ち上げた。
思ったより重かったらしい。
腰を落としながら、さらに何か叫んだ。
女は笑いながら、置く場所を指示している。
一つ運び終えると、今度は別の箱を指した。
若者が天を仰ぐ。
それでも帰らない。
旅人も、とうとう声を出して笑った。
いつの間にか歌になっていた
誰かが、空になった魚箱を指で叩き始めた。
コン。
コン、コン。
コン。
別の誰かが手拍子を重ねた。
女が魚を持ち上げ、いつもの売り声を上げる。
若者が大声で何か返した。
女が短く言う。
若者が長く言い返す。
市場が笑う。
軽口と笑い、魚箱を叩く音。いつの間にか、それは歌になっていた。
また箱が鳴る。
手拍子が重なる。
どこからか、痩せた電気オルガンの音まで聞こえてきた。
最初は、誰かが勝手に鳴らしているだけだと思った。
けれど、その音は女の売り声を追いかけた。
若者の言葉にも応じた。
女が声を上げる。
若者が返す。
周囲が囃し立てる。
旅人は、少しして気づいた。
いつの間にか、二人のやり取りには節がついていた。
歌手はいなかった
旅人は、しばらくその場を動けなかった。
歌手はいなかった。
ステージもなかった。
演奏が始まる時間を待っていたわけでもない。
魚を売る女がいて。
それをからかう若者がいて。
周りで笑う人々がいた。
それだけだった。
誰かが歌おうとして始めたわけではない。
いつもの市場。
いつもの女。
いつもの若者。
いつもの軽口。
そこへ、笑いと手拍子が重なった。
そして気づけば、それは音楽になっていた。
若者はまだ何か言っている。
女は魚を一匹持ち上げ、若者へ差し出した。
若者が首を振る。
女が押しつける。
若者がまた何か言う。
女が短く返す。
最後に若者はポケットから金を出した。
また市場が笑った。
魚を手にした若者は、まだ文句を言いながら歩いていく。
女はその背中を見送りもしなかった。
もう次の客へ向かって、声を上げている。
旅人には、それが妙に可笑しかった。
少し前まで、この街の人々は怒っているのだと思っていた。
声が大きく、言葉がぶつかり、誰も相手が話し終えるのを待たない。
けれど、どうやらそれだけではない。
怒鳴るように話しながら笑う。
からかいながら手を貸す。
言い負かされても、翌日にはまたやって来る。
旅人にとっては荒っぽく見えるものが、ここではただの日常なのかもしれなかった。
そして、その日常は少しだけ、歌に近かった。
旅人は港の方を振り返った。
遠くに地中海が光っている。
鞄の奥には、まだ古いカセットが入っていた。
そこに書かれた一語の意味を、旅人はまだ知らない。
ORAN
けれど、その街がどんな声で笑うのかは、少しだけ分かった気がした。
オランという街は、少し騒がしすぎる。けれど、嫌いではなかった。
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