マルティニーク|三つの夜と、最後のビギン Part 1
第一章|フォール・ド・フランスの夜
行ったことのない土地にも、なぜか昔から心惹かれる場所がある。
僕にとって、マルティニークはそんな島のひとつだった。
カリブ海に浮かぶ旧フランス領の島。
フランスとカリブが混ざり合って生まれた、フレンチ・クレオールの文化。
そして、ビギン。
ヴァイオリンが奏でる、優しく、少し切なく、それでいて自然と身体を揺らしたくなる旋律。
実際のマルティニークを、僕はまだ知らない。
だから今回は、音楽から想像したひとつの旅を描いてみたい。
主人公の名前はダニエル。
長いあいだ夢見てきたカリブ縦断の旅を始めるため、彼はいま、フロリダのフォートローダーデールにいる。
最初の目的地は、フォール・ド・フランス。
そこで彼を待っているのは、念願だったビギンの響き。
そして――まだ名前も知らない、一人の女性だった。
ダニエルは、ずっとこの旅をしてみたいと思っていた。
フロリダから南へ。
カリブの島々を渡りながら、それぞれの土地の音楽や文化に触れていく。
その最初の大きな目的地として選んだのが、マルティニークだった。
昔から、この島の独特な文化に興味があった。
フランスの香りを残しながら、カリブの空気の中で育った文化。
そして何より、フレンチ・クレオールの優しい音。
ビギンやマズルカのような、どこか懐かしく、品のある旋律が好きだった。
いつか録音ではなく、その土地の空気の中で聴いてみたい。
そんな思いを、ずっと持ち続けていた。
フォール・ド・フランスに着いた。
空港を出ると、カリブの柔らかな風が頬をなでた。
強い日差しはある。
けれど空気はどこか優しい。
ダニエルはタクシーに乗り、ホテルへ向かった。
車窓から初めて見る街を眺める。
港。
坂道。
建物。
行き交う人々。
どれもまだ、彼にとっては名前のない風景だった。
ホテルに着くと荷物をほどき、シャワーを浴びた。
長旅の疲れは少し残っている。
けれど部屋にいる気にはなれなかった。
せっかく、ずっと来たかった島にいる。
ダニエルはそのまま街へ出た。
目的地は決めていない。
知らない街では、むしろその方がいい。
気になった通りがあれば曲がる。
店先を眺める。
人の流れについて歩いてみる。
そうしているうちに、一本の細い路地へ入った。
そこで、小さなバーの看板が目に留まった。
特別目立つ店ではない。
何が気になったのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、なんとなく入ってみたくなった。
旅先では、そういう直感に従うのも悪くない。
ダニエルは扉を開けた。
少し暗い店内。
古い木のカウンター。
グラスの触れ合う音。
何人かの客が静かに話している。
そして奥から、ヴァイオリンの旋律が流れていた。
ダニエルは思わず足を止めた。
ビギンだった。
ずっと聴いてみたかった音。
録音でも、動画でもない。
この島の夜の空気の中で流れるビギン。
それだけで、ここへ来た意味があったような気がした。
カウンターに腰を下ろし、しばらく音楽を聴いていた。
まだ注文もしていない。
ただ、ヴァイオリンの柔らかな旋律に耳を傾けていた。
そのとき、隣に人の気配がした。
「ここ、座ってもいい?」
振り向く。
一人の女性が立っていた。
少し浅黒い肌。
黒に近い髪が、肩のあたりで柔らかく揺れている。
ミニ丈のショートドレスを軽やかにまとっていたが、派手な印象はなかった。
むしろ自然な品がある。
そして何より、笑顔が印象的だった。
よく笑う人なのだろう。
目元まで柔らかくなるその笑顔には、初対面の相手を構えさせない、不思議な親しみやすさがあった。
「もちろんです」
ダニエルが答えると、女性は隣に腰を下ろした。
「見慣れない人ね。どこから?」
「フロリダからです」
「旅行?」
「ええ。この島にずっと興味があって。それで、ようやく来ることができました」
「そうなの」
ダニエルは店の中を見回した。
「ホテルに荷物を置いて、適当に歩いていたんです。この店も、なんとなく看板が気になって入ってみただけで」
彼女は少し笑った。
「それ、いい入り方ね」
そしてカウンターの上を見る。
「まだオーダーしてないみたいね。何を飲むの?」
「実は、まだ決めてなくて」
「だったら、よかったらおすすめを紹介するわよ」
「ぜひ」
彼女はバーテンダーに声をかけた。
やがて小さなグラスが、ダニエルの前に置かれた。
琥珀色のラムだった。
「まずはこれ」
彼女が言う。
「少し強いけど、おいしいのよ」
ダニエルはグラスを手に取った。
「乾杯?」
「マルティニークへようこそ」
二人は軽くグラスを合わせた。
ダニエルはラムを一口飲んだ。
そして、少しむせた。
彼女が楽しそうに笑う。
「ね、気をつけて。プルーフが101だから」
「先に言ってくださいよ」
「でも、それがおいしいの」
そう言って彼女も自分のグラスを持ち上げる。
「最初はびっくりするでしょう。でも、この味と香り、きっと気に入ってもらえると思うわ」
ダニエルは今度は少しだけ口に含んだ。
急がず、舌の上で転がす。
さっきは強さしか感じなかった酒から、少しずつ違う香りが見えてくる。
甘さ。
樽の香り。
そして、どこか土を思わせるような深み。
「……あ、本当だ」
「でしょう?」
彼女は満足そうに笑った。
店内では、相変わらずビギンが流れている。
彼女がその旋律に耳を傾けた。
「そう、ビギンよ」
「やっぱり」
「この島にはズークみたいな、もっとエキセントリックで強い音もあるけど、私はこっちの方が好き」
「ビギンの方?」
「ええ。この優雅な旋律が好きなの」
ヴァイオリンが、柔らかく夜の空気を縫っていく。
「派手じゃないでしょう。でも、ちゃんと心に残るの。少し昔っぽくて、少し寂しくて。それでも踊りたくなる」
ダニエルは彼女を見る。
「僕も、そういうところが好きなんです」
彼女が少し驚いたようにこちらを見る。
「本当に?」
「だから、この島に来たかった」
すると彼女は、少しだけ嬉しそうに笑った。
「じゃあ、来る場所を間違えなかったわね」
それから二人は、ずいぶん長く話した。
彼女は、とにかく話すのが上手だった。
よく笑う。
けれど、自分ばかりが話すわけではない。
ダニエルが何かを話し始めると、ちゃんとこちらを見て聞いている。
途中で遮ることもない。
そして、こちらが話し終えると、ちょうどいいところで次の言葉を返してくる。
「それで、どうしてカリブを旅しようと思ったの?」
「ずっと前から来てみたかったんです。島ごとに文化も音楽も全然違うでしょう」
「音楽が好きなのね」
「かなり」
「だから、この店に入ってきたのかしら」
「それは本当に偶然です」
「偶然ねえ」
彼女は少し意味ありげに笑った。
話して、笑って、少し黙る。
こちらに問いかけて、今度はこちらの話を聞く。
そして、また笑う。
彼女には独特のリズムがあった。
まるで店に流れているビギンのようだった。
ダニエルはいつの間にか、そのリズムに乗せられていた。
初対面だった。
名前もまだ知らない。
けれど、いつの間にか二人はずいぶん打ち解けていた。
会話が途切れても、不思議と気まずくはならない。
その沈黙を、ビギンが埋めてくれる。
そしてグラスには、あの強いラムがある。
二人を近づけたのは、特別な言葉ではなかったのかもしれない。
一杯のラム。
そして、店内を流れるビギン。
それが触媒のように、見知らぬ男と女の間にあった距離を、少しずつ溶かしていった。
気がつけば、ずいぶん遅い時間になっていた。
二人は店を出る。
夜のフォール・ド・フランスには、まだ少し暖かな風が吹いていた。
「楽しかったわ」
彼女が言った。
「僕もです」
「じゃあ、良い夜を」
「あなたも」
それだけだった。
名前を聞くことすら忘れていた。
ダニエルはホテルへ戻りながら、少し笑った。
マルティニークに着いた最初の夜。
念願だったビギンを聴き、強いラムを教えてもらい、名前も知らない女性と何時間も話した。
悪くない始まりだった。
いや。
思っていた以上に、いい始まりだった。
コメント
コメントを投稿